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「あなたらしい」
「ふたりらしい」
「個性的な」
「オリジナル」
「世界でひとつだけの」

いまどき、こんな陳腐な言葉で集客をはかろうとするほど、
ブライダル業界の悩みは深い。

どんなおふたりが来ようと、できあがった「ひな型」に名前を差し替えていくだけの、
「少品種大量生産型」のウエディングをつくってきた、この業界。

そのため、たくさんの「結婚式ばなれ」を引き起こし、
自らの首をしめてきた結果、
ひねり出してきた言葉なのだ。

残念ながら、その底はとても浅い。

そこに登場してきたのが、
「安さ」を売りにするか、
「クリエイティブ」を売りにする新勢力。


オーベルジュメソンで、
その日のウエディングが終盤を迎える頃、
お二人にこんな実感がともなっていることを感じることがあります。

「これまでの人生は、とてもしあわせだったのかもしれない」

もちろん、おふたりの人生は結婚前より、
結婚後のほうが長くなる可能性が高い。

そんな時期にでも、そのことに気づかされてしまう。
それこそが、「本当のウエディング」だと断言できます。


「誰かの心のなかに、自分が大切な存在としてあること」
それを実感したとき、人は「しあわせ」を感じます。

この感覚は、共鳴しあい、その場にあふれます。


お二人同士、家族、ゲスト……。
「大切な存在であること」を伝え合う、コミュニケーション。
これこそが、ウエディングの本質です。

大切なのは「あなたらしさ」ではなく、
「あなた」という存在そのものなのです。



「それって、どういうこと?」
「どうしたらできるの?」
直接、お話させていただきます。
ホームページを熟読の上、メソンへお越しください。
http://meson-w.com/


「安さ」「クリエイティブ」だけ突出させても、
大切なことを見逃しているのは、
既存の業界とあまり変わりはないのです。

# by mesonbox1 | 2015-11-12 19:33
いま、ブライダル業界はこんな図式で見られているのかもしれません。

A.安価で「記録」だけを残すことを目的にする「撮影系」。
B.結婚式という形式は一通り実現でき、だれからもクレームがつきそうにない安定の「ホテル・結婚式場系」。
C.あなたのイメージ以上のものを実現し、自由だけど高価な「プロデュース系」。

オーベルジュメソンは、どこにも属さないなぁと思います。
あらゆることが業界の常識からは、ずれているからかもしれません。



どんなウエディングにするか、
私たちがとてもエネルギーを注ぐのは、実はこんなことです。

ある一日、お二人が結婚するにあたってたくさんの方々にお集まりいただく。
人生の中でお二人のために、そんな方々が一同にお集まりいただく機会は、2度とないでしょう。
そんな機会を「結婚式だから」という名目だけでなく、
そこにどんな意味・目的・思いを込めるのか?
それを明確にすることが、とても大切だと思うということ。

もう一つは、主催者がお二人であるということ。
もちろん、メソンにとってお二人はお客さん、であることは間違いありませんが、
そのことと主催者である、ということは別の話です。
進行、企画、もてなし…。
さまざまなことを決め、実行するのはお二人。
私たちはそのサポート役であること。

私たちは打ち合わせの当初、この二つのことをちゃんとご理解いただくことに、
情熱を込めるのです。
これが、「いいウエディング」へつながる、最大の要素だからです。

あえていえば、「お二人とゲストとの、リアルなコミュニケーション」。
「装飾」というたくさんの皮をむいていき、
残る芯・ウエディングの「本質」は、実はこんなことなんです。


こうした考え方は、世間やこの業界では、必ずしも常識とはなっていません。
そのために、ご理解いただくうえで、少なからず戸惑われるかもしれません。


最初から、私たちの感覚と共通のお持ちのお二人がいらっしゃれば、
まったく白紙の状態の方もおられます。
それはそれでいいのですが、「わたしのスタイル」のようなものを、
突出させて実現したいと望まれるケースもあります。

このケースの場合、ネットや印刷物による情報をとても熟知されてます。
画像を見て、「素敵だなぁ。こんなことを私たちもできたらなぁ」と。
この気持ちは、とても理解できます。

ウエディングには、たくさんの装飾が存在します。
ドレス、タキシード、アクセサリー、ヘア、メイク、装花、ブーケ、ケーキ、料理や、
招待状などの印刷物などなど、会場そのものも装飾の一部ともいえます。

でも、上記の「本質」からずれたところで存在させていても、
空回りしてしまいます。
「どう?わたしたち素敵でしょ?」という表現は、
ゲストを大切にすることを前提にした、
コミュニケーションにはなりえないからです。


わたしたちは、オーベルジュメソンで結婚式をされるお二人を、
例外なく全力でサポートしてきました。
お二人はもちろん、ご家族にも「メソンでよかった」と
おもっていただいている。

でもメソン内部では、全力をつくしましたが、「もっとやれることがあったかもしれない」という、
悩みも少なからずあるのは事実です。
そんなときは、力量不足を痛感します。
(もうやめようと、思うことも多々。)


メソンのウエディングは、有料の宣伝をしていません。
ですからルートはさまざまでしょうが、
探し出したお二人だけがお越しになる会場です。


そんな方々と、もっと力をつけながら、
「芯」を大切にしたウエディングを続けていきます。

イマイチなブライダル業界しか存在しない日本で、
わたしたちが存在する意味があるからです。






# by mesonbox1 | 2015-11-03 18:55
最近メソン内では、「あたたかい料理とはなにか?」が話題になることがある。

めったにミーティングをしないので、
メソンなりの結論に至るには時間がかかりそうだが、
「あたたかい料理」への一歩を踏み出す、
仕掛けづくりを始めた。


料理は、作り手からの一方的な愛情表現だ。
これは、家庭でもレストランでも変わらない。

料理のテクニックやノウハウはとても重要だが、
美味しい料理をつくりつづけるには、
それを支えるモチベーション(=愛情)が、
大きな分かれ目になるように思うのだ。


「人類愛」や「郷土愛」のような、
スケールの大きな「愛情」だって、
目の前にいる誰かへの「愛情」の延長線上にしか存在しえない。


そんな誰かへ、特別な愛情を注ぐには、
その人が目の前にいること。
そしてコミュニケーションすること。
そんなことが、出発点になる。


オーベルジュメソンの厨房は、
客席・客室から、かなり奥まったところに存在していて、
接客担当を通じてしか、さまざまな情報が伝わらない。


そんな調理の現場を、客席から直接みえるところまで
引っ張り出すためのプランづくりに着手してる。

実は「客席から厨房が見える」というより、
「厨房から客席が見える」というほうがより大切で、
そこは、「料理をつくる人」と「食べる人」とのコミュニケーションが
可能な場ともなりえるのだ。

この仕掛けで、「愛のある料理」へのモチベーションを支えようというわけです。


概算見積りをみると、恐るべき金額。
さまざまなものをそぎ落としながら、
減額しているが、手持ち資金に無理のない程度で、
どこまでこの目的が実現できるのかを調整中。

この冬に工事に着手し、来年3月にはお目見えできるか、
一年繰り延べするか、ぎりぎりのところです。

さて、どうなるか?




# by mesonbox1 | 2015-10-29 14:33
ぼくが高校生のころまで、
両親といっしょに、しばしば母方のおじいちゃんちに行く機会がありました。

おじいちゃんちは、岐阜県にある農家で、田んぼやミカン畑、
あちこちの「山」を所有していたようです。

お盆や年末年始には、一族があつまり、総勢2~30人で宴会なんてことは、
よくある風景でした。
そんなときには、必ずその家の仏壇や「先祖代々の墓」と刻まれたお墓に手を合わせ、
「おこずかいが増えますように」なんて願っていた、
筋違いの子どもでした。

おじいちゃんが亡くなり、その長男がその家を継ぎ、
今はそのまた長男(ぼくからすればいとこ)が当主となっていますが、
そのイエにはいまのところ子どもがいず、
会社勤めで、農業をしていません。

彼(いとこ)がいなくなった時点で、その「イエ」あるいは「家系」の存在がどうなるか、
定かではありません。

おじいちゃんが亡くなってから、ぼくはその家には一度も行っていません。




一方、父方の実家は、ぼくが生まれた時には、父の両親は亡くなっており、
あまりその実家に立ち寄ることはありませんでした。
お墓には行く機会がありましたが、「このお墓には誰がいるの?」って感じで、
親近感がまるでない状況でした。


つまり、ぼくの経験からすると「家系」を意識するには、
①当人がもの心つく頃に、少なくともまだ祖父・祖母の世代が生きていること。
②そのときにはすでに、その先祖の墓に手を合わせる習慣があること。
③「イエ」が継ぐべき、先祖からの財産があること。
が必要なのではないかと思います。



昨年末から今年の年始に、
ぼくの両親が亡くなりました。
同居していた兄の家では、
「そろそろ墓を準備しないと」と動き出しているようです。

そんな話を聞いて、「いらないと思う」と、
意見表明だけはしました。
どうも、現在の家族のあり方と、
「墓」というシステムが合致していないんではないかと。


我が家は、娘が二人。
ぼくの「イエ」の墓に行ったことがありません。
妻の「イエ」の墓には、一度か二度か。
つまり習慣化されてない。
この娘たちは、ぼくが死んだ後、
僕の親の墓ができても墓参りには行かないでしょう。
もちろん、悪意がないことは理解できます。


ぼくの父方の実家で証明されているように、
おじいちゃん・おばあちゃんがいなくなると、
同居していた兄弟がいてもその家にはあまりいかなくなってしまう。
もちろん、そのあり方はさまざまだと思いますが、
ウチでもそんなことになるかもしれません。

兄の家の墓参り経験は、わかりません。
家・土地は、所有していますが、
先祖から継いでいるものはありません。


現代の「イエ」は、親と子ども→親と子ども→親と子ども………、
という感じで、2世代の繰り返しの継続しているというだけ、という感じがしています。

そこに、「永続的」な継承を求める、
「墓」という存在は、合致していないんではないかと思うのです。



すでに、だれからも世話されなくなった、放置状態の墓の存在が、
社会問題化しつつあります。

おそらく、その流れは加速化される。
それがわかっていて、墓を新設することに同意しにくいわけです。

墓のあり方も多様化しているようですが、
どれも面積の大小が違うだけ。


ある人が亡くなった。
その人が亡くなったとき、
心から残念に思う人がいる。
ふと亡き人を思い出したとき、
手を合わせる場がそこにある。

そんな場(もの)があればいいと思うのです。

それは、現代では「墓」ではないと思います。




# by mesonbox1 | 2015-10-01 17:25
次女は、中学校3年生。
地元の小学校を卒業し、そのまま地元の中学校に進学させました。

長女とは明らかに違ったタイプの人間に育っていくのをみて、
違う進路がふさわしいんじゃないかと考えたからです。

学校でのわずかな「ボタンの掛け違い」で、
2年ほど通学していません。

そんな自分を新たな場で、完全リセットしたいんでしょう。
中2の頃から「この高校へ行きたい」と、受験準備を始めています。


長女は、この父親のもとで育ったとは思えないぐらい、
まっすぐな感じなのですが、
次女には「ねじれ」が入ります。
ねじれ具合は、ぼくに似ているような気がします。

「ねじれ」の先輩からすると、
ときに「生きづらさ」に遭遇することがあります。
(誰しもそうなんだとおもいますけど)
その分、楽しく生きていける可能性も、大きいのではないかとも思います。


ぼくにも、学校に行くのがとてもつらい時期がありました。
いまから思うと、その当時は「学校に行かない」という選択肢が、
社会になかったように思います。

ですから、本人の「学校に行けてない」という「後ろめたさ」を横におけば、
実は少しうらやましさすら感じます。

学校に行かないという選択をしていたら、
もう少しまともな人間になっていたのかもなぁーとか。


次女が進学を望んでいる学校も京都にあるので、
進学後は長女と同居させ、
「二人で暮らして行け!」と宣言してあります。


二人が、この社会の中で、どんなポジションで生きていくのか、
ねじれた父親は、ちょっとだけ楽しみです。




# by mesonbox1 | 2015-09-25 12:43